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ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 246

Distance  オリーさん  

勢いよく落ちてくる水滴は、無数の弾のようだ
シャワールームの中が徐々に曇ってゆく
熱めに設定したお湯の下に飛び込み
僕を降り注ぐその弾に体をさらした
体を貫かれ粉々に打ち砕かれたい
ふとそんな衝動に駆られた

何もかも洗い流してほしい
あの香りも、あの記憶も、すべて・・
僕は両方の手で思い切り顔を洗った

香りは消せても、記憶は薄れても
それでも憶えている
この腕が
この胸が
この唇が
あの人を

ざっと体の滴をぬぐい脱衣所に走りこむと
別の入り口から入ってきた影とぶつかりそうになった
イナさんだった

「よお」
「おはようございます」
「シャワー浴びたのか?」
「シャワールーム、暖めておきましたよ」
「サンキュー」

「昨日はご馳走様でした」
「あん?」
「昨日いただいたパン、美味しかったです」
「あいつ、何か言ってた?」
「僕の分も取りそうな勢いでした」
「そっか・・」
イナさんの照れ笑いは柔らかく、人を惹きつける

「パン職人になれそうな腕前ですね」
「そりゃ無理だ」
「あれは素人の域を出てますよ」
「職人てのはさ、毎日毎日同じ味出さないといけない。
テソンの出汁は毎日同じに美味いだろ?」
「ええ」
「俺のは気分で波がある、だめだろうな・・」
イナさんはそう言って一瞬目を伏せた
今日のイナさんはどこか線が細い
なぜだろう
うまくいったはずなのに
まだ何か・・


「それより珍しいな」
「え?」
「お前が店でシャワー浴びるなんて珍しいな。
店に来るときはいつもキッチリ決めてるのにさ」
「そうかなあ・・」
「あいつと一緒にキッチリとな」
「そうでもないですよ」
「どうした?」

僕はイナさんを見つめた
この人はそうなんだ
いつもこうやって人を見ている
こうして交わすさりげない会話からも
この人は何かを感じ取っている
たぶん故意ではなく自然に

僕は視線をはずし、タオルで頭を拭きながら言った
「浮気の証拠を消したんですよ」
「浮気?」
「残り香があるとまずいでしょ」
「お前が?」
「たまにはね」
「冗談だろ」
「冗談だと思います?」
僕はイナさんに微笑んだ

冗談だと思いますか?

イナさんは大きなため息をついた
「お前知らないのか?」
「何を?」
「あいつ、すげー嫉妬深いんだぞ」
「・・・」
「浮気なんかしてみろ、大変なことになる」
「そうでしょうか」
「のんきなこと言ってる場合じゃねえぞ」
「・・・」

「あいつ金持ちだろ」
「今は違います」
「でも金持ちだった」
「だから?」
「金持ちってのはな、既得権には敏感なんだ」
「既得権って・・僕ですか?」
「そんなようなもんだろ」
言いながらイナさんはくすくす笑った
「何か、ひどくないですか」
僕も笑った
笑いながら続けた
「じゃあ試してみようかな」

イナさんが真顔になり僕をつっと見つめた
この人の瞳も饒舌だ
憂いと慈しみを同時に表現できる

「柄にもないことするな」
「柄にもない?」
「お前も色々楽しくないことがあんだろ。でもやめとけ」
「僕に浮気は無理だと?」
「ああ、無理だ」
「僕だって聖人君子じゃありません。浮気のひとつくらい」
「軽くできる奴ならいいさ」
「・・・」
「お前がするとしたら本気だ。だからやめとけ」
「イナさん・・」
「ま、俺も人のことをとやかく言えた義理じゃないけどな」
イナさんがふっと微笑み、その姿がゆらりと揺れたような気がした
それからぶらぶらと手を振ってシャワールームへ消えた

『お前がするとしたら本気だ』

イナさんの言葉が僕の中でこだましていた
本気・・
イナさんはどうだったんですか・・
テジュンさんと別れようとしたほど
あの人とは・・


ロッカールームの扉を少し開いたところで
中から大きな声が聞こえてきた
チョンマンさんだ

「でね、そのシーンがまたすごくいいのさあ」
「目薬用意なんて話もあったけど全然っ」
「んでね、チーフのジンがさあ、桜の木の話をするの」
「これまた元チーフのヒョンジュがさあ、何者っていうくらいはまっててさあ」
「で、そのままキスシーンまで突っ走ってゴー!」
「いや、そんな勢いのある場面じゃないんだけどね」
「もう誰も口きけないわけよ」
「しぃぃーーーんとした中でさあ、あの二人が延々といたすわけよ」

そうか、今日があのキスシーンの撮影だったんだ
僕は撮影のスケジュールを詳しく知らない
聞かないから彼も言わない
それでいいと思っている
許されてる、許してる、どっちだろう・・
どっちでもない
僕は先生とキスをした
それだけだ
僕はロッカールームへと足を踏み出した

話を聞いていたメンバーが一斉に僕を見つめ
その場の空気が張り詰めたのがわかった
僕は無言でチョンマンさんの脇へ歩いていった

「んでもってさあっとっと、ギョンビン、もしかして聞いてた?」
ぎょっとしてチョンマンさんが振り返った
「ぜぇんぶ聞いてましたよ。とんでもない撮影ですって?」
僕が笑いながらチョンマンさんの首に絡みついたので、
みんなの視線がほっと緩んだ

「あ、いや・・その・・」
「続けてくださいよ、僕も聞きたいなあ。あの二人のえ・い・が・の話をね」
「そうそう、映画の話だよな、もち」
「そうですよねえ。それで?」
「予想では今年公開された映画のキスシーンベスト1になるわな」
「そんなに?」
「ああ、賭けてもいい」
「そうですか、僕も早く見たいな」
「お前も撮影見にこいよ」
チョンマンさんが僕をこづいた

そこへ監督が割って入ってきた
「チョンマン、君は僕のコネで撮影現場に入れることを忘れないように。
ついでにへたくそなエキストラだという事も忘れないように」
「監督、僕上手くやったでしょうがっ」
「いや、人生を語ってなかった」
「エキストラに人生求めます?」
「だから君は甘いのよねえ」
みんながどっと笑った

監督はそれから僕に体を摺り寄せてきた
「ところでギョンビン君・・」
「はい?」
「君の風呂上りのランニング姿、初めて見せてもらった」
「あ、すみません。ワイシャツがロッカーなので」
「いいのいいの。それより君ってば、着痩せするタイプだったのね」
「はい?」
「いいねえ・・」
「ども・・」
「今度いい男だけ集めて『男祭り』って映画撮ろうかと思ってるんだけど」
「・・・」
「だめ?」
「だめ」
「そっか・・」
またみんなが笑った

しばらくして、ドンジュンさんが
なぜか兄さんとラブ君とやってきた
「街で兄さん達とバッタリ会っちゃってさ」
「そうだったんですか」
「ギョンビンの兄貴、やっぱ、なかなかだよな」
「え?」
「いいよ、ああいう人」
「ふうん」
「何さ、まんざらでもない顔して」
「別に・・」
「まっいっか」

そして、店が開く少し前に彼とスヒョンさんがやってきた
みんなはそれとなく笑いながら二人を見つめたが
二人とも平然としていた
恐れを知らないテプンさんが
お前ら今日すごいシーン撮ったんだってな、と突っ込んで、
彼にすごい目で睨まれ、スヒョンさんにまあねといなされた
僕とドンジュンさんは下を向いて笑いをこらえた
気持ちが楽なのは、やはりあのせいだろうか


その日の夜、彼はどことなく穏やかな雰囲気だった
むずかしい撮影が終わって安心したからだろうか
いつも彼の中にあるピンと張り詰めたピアノの弦のような糸
彼を中から支えているかのようなその糸が
その夜は見えなかった
かわりに瞳の中に柔らかい光が灯っていた

思い出した
いつかもそんな目をしていたことがある
あれは祭りの時・・
あの人の部屋に行って・・僕が迎えに行ったんだ
あの後そんな目をしていたよね・・

「今日の撮影、うまく行ったんだってね」
「ああ」
「滑り出し順調だね」
「監督さんの腕がいいんだろう。スヒョンも真剣だし」
「すごいキスシーンだったって。チョンマンさんが興奮してた」
「そう言われても僕はよくわからない」
「だろうね」
「気になるか?」
「何?」
「いや、その・・スヒョンと・・」
「キスシーンのこと?だって撮影でしょ」

彼を振り向いた僕と台本から顔を上げた彼の視線が空中で絡まった

それともまだ他に何かあるの?
いや・・
いつもと違うよ
何が?
とっても穏やかな顔してる
何もない
そう、ならいい
ミン?
何?
そっちこそ何かあったのか
何もないよ
そうか・・

そんな会話を一瞬でしたような気がした
いいよ、何も聞かない
そのかわり
僕も何も言わない

「まだ台本読む?」
「ああ、もうちょっと」
「なら僕は別の部屋で寝る」
「・・・」
「集中したいでしょ。イナさんの隣の部屋で寝るから」
「もう少しで終わる」
「無理しなくていいよ。前から考えてたんだ。
撮影中は部屋は別にした方がいいかもね」

僕は枕を手に取った
「よくホテルにこもったりするんでしょ、撮影中の俳優さんて」
「どうなのかな・・」
「わかってる、邪魔はしないから」
「ミン・・」
「おやすみ。朝はちゃんと起こすから心配しないで」
僕は彼に微笑んだ
彼はちょっと戸惑った顔で僕を見送った

後ろ手で扉を閉めながら僕は考えた
昨日まで、いや今朝までの僕ならたぶん違った
ふたりのキスシーンがもっと気になり
今夜の彼の様子がもっと気になり
もしかしたら、問い詰めてたかもしれない

だからこれでよかったのだ
たぶん・・

ゲストルームは暖まるまで少し時間がかかった
それでも殺風景な部屋がかえって心を和ませてくれた
開放感と罪悪感、嫉妬と疑惑
それぞれの想いを少しづつ抱いて、僕は眠りに落ちた

神様、僕に平静さをください


どのくらい経ったのだろう
肩のあたりに違和感を感じて眼が覚めた
彼が僕の肩に顔を埋めて眠っているのが、気配でわかった

ずるいよ
ねえ、ずるいよ・・
こんなの・・

僕は心の中で何度もそう呟いた
それから
振り返って眠っている彼を抱きしめた


千の想い 209 ぴかろん


丁度いい具合に湯が沸いたところで、テジュンが帰ってきた
ただいま、と自信に溢れた笑顔を覗かせる
あんな顔は真似できないけど、僕も笑顔でテジュンを迎えた
風呂が沸いたところだと言うと、頷いて荷物を置きに二階へ上がっていった
僕の笑顔は引きつってなかったか?
テジュンの笑顔はとても自然だ

なのにイナはなぜあんな顔をする?
あんな悲しそうな…

ドタドタと大きな音を立ててテジュンが階段を降りてくる
お前はなんで静かに降りてこないんだ、といつものように文句を言う
しょうがねぇだろ、こうしないと『降りた』って気にならないんだから…
テジュンもいつもの返事をして風呂場に消えた
その背中にイナの無邪気な微笑みが浮かぶ
僕に纏いつくイナの幻は、いつも泣き顔なんだ、テジュン…

居間に座ってテレビをつけた
歌番組をやっていた
流行の歌の歌詞を読み、喉の奥がぎゅっと締まった
イナのカバンが目に入った
そうだ、テジュンの部屋に持ってってもらわなきゃ…
引き寄せて抱きしめて…頬ずりをする…
涙が溢れる

なんで?
まだ僕は『僕』が解らない


風呂上りのテジュンはまっすぐ居間にやって来た
入れ替わりに僕が風呂に入る
湯に浸かり、自分を抱きしめる
あの日に飛んで行く
イナに甘えたかったのか
それともイナを甘えさせたかったのか
イナでなくてもよかったのか

ううん…
イナじゃなきゃダメだった
けど、そのせいで僕はまだ息ができない…

纏いつく幻影を払いのけながら体を洗う
払いのけても払いのけてもあの唇と指が僕を這う
あの唇は
あの指はもう
テジュンの体を這っているのに

蜘蛛の巣にかかった虫みたいに
僕はどんどん動けなくなる
諦めているのにもがいている
気持ちをはっきりさせたはずなのに
なぜすっきりと笑えないのだろう

風呂から出て居間に行くと、テジュンが酒の用意をして待っていた

「従兄弟同士で久々に飲もうじゃありませんか」

僕の好きな焼酎やつまみがテーブルに並んでいる

「これ作ったの?」
「いや。飯食ったとこのチャプチェが美味かったから包んでもらった。食え。酒も仕入れてきたし、飲もう!」

グラスにとぽとぽと焼酎を注ぎ、乾杯をする
クッと一杯飲み干してお互いにフッと笑った
何年ぶりだろう…二人で酒を飲むのは…

*****

夕方だったろうか、鼻声のイナから電話がかかってきた

「どーしたの?ん?」
『てじゅ…今夜はヨンナムさんち?』
「うん。直接帰るよ」
『…』
「…。店、終わったら迎えに来てほしい?」
『ううん…そじゃない』
「寂しい?」
『…。ヨンナムさんのこと、お願いします』
「は?」
『…寂しがらせないで…』
「…。なんか…あった?」
『別に…何も…。…俺、何していいかわかんないから…』
「…。気になるんだな?」
『…ん…』
「解った。てじゅに任せなさい」
『…ん…』
「ああん。迎えにいってあげよっか?ん?」
『いい』
「ちゃんとRRHに帰るんだぞ」
『…ん…』
「いい機会だから、ヨンナムと色々話してみる」
『…ん…』

電話を切った後、先輩がニヤニヤしていたので睨み付けてやった
けど、睨みきれなかった
だってぇ…

「先輩ぃぃ…『…ん…』ですよ『…ん…』。ああたまんない、僕体が二つほしいっ!」
「ふ。一つはキム・イナ担当か?」
「あい。ずーっと一緒にいるんですひひん。んでもう一つは」
「色気小僧担当だな?」
「…」

何を言う!この撫で肩妖怪がっ!

「だな?ん?いやらしい!」
「…」

でも…そうか…。ラブ担当の体が一つあれば…
あへ…えへへ…

「いやらしい笑い方をしてっ!キム・イナに報告してやる!」
「違いますよ先輩!一つはイナにくっついてて、一つはしっかり仕事するんです!そんな…ラブ担当だなんて…」
「へぇ~。マジメになったんだぁ~」
「…体が三つないと割り振りできません」
「は?」
「ラブ担当は長時間体力勝負っすから」
「…」
「ふ」
「いやらちいっ!きいっ!メモッ」
「あっ。こら!イナに変なこと言わないでくださいよ!…でもなぁ…ホントに体が二つあったら、ヨンナムのケアとイナの相手、同時にできるのにぃ…
ああ…お迎えにいってあげたああい♪」
「…。気持ち悪いほどルンルンだな。全く…」
「すみませーん♪けひっ」

イナがヨンナムを気にしていることはよく解っている
ヨンナムんちに帰ったら、僕はアイツとじっくり話をしたいと思っていた

迎えてくれたアイツに笑顔が貼り付いていた
本調子じゃねぇな…
アイツが風呂に入っている間に、僕は二人だけの宴会の準備をした

ずっとそうしたかった
腹を割って話したい
今夜はそうするんだ
でないと、お前もイナもいつまでたっても本気で笑えない…

*****

イナが僕を気にしているとテジュンが唐突に言った

「お前は…イナを好きだった?」
「…うん…好きだぜ、『友達』として」
「『恋』じゃなかったの?寝ようとしたのに?」
「できなかったもん。違うよ」
「肌、触れ合ったんだろ?」
「…。お前なぁ、しつこいぞ。忘れろよ、ちょっとした間違いなんだから。嫉妬深い奴だな」
「嫉妬じゃないよ、ヨンナム。聞かせてくれないかな…イナと触れ合ってどうだったか?」
「…。どうっ…て…」
「イナに抱かれそうになって…気持ちよかったか?」
「…」
「気持ちよかったろ?」

テジュンの顔を見つめた
僕を責めている風ではない
こちらをまっすぐに見て、優しい声で僕の中から何かを引き出そうとしている
この声に導かれていけば、僕は答えを見つけられるのだろうか…

「触れ合ううちに本当に好きになってしまったこと、僕はある」
「…テジュン」
「イナとの始まりもそうだし…ラブとも…そうだ…」
「…」
「僕は真剣にラブを愛した。お前も…イナを愛したんだろ?」
「僕らはできなかったんだぜ。中途半端な気持ちだってことだよ」
「できたとかできなかったとかじゃなくて…触れ合ってる時の気持ちを聞いてるんだ。その瞬間、イナを好きだったんだろ?イナに恋してたんだろ?」
「違う、恋じゃない」
「…。この意地っ張りめ」

柔らかい微笑みを浮べてテジュンは僕に酒を注いだ
それを飲み干しながら気づいた

僕はイナに恋をしたんだ
あの時、僕は確かにイナを愛したんだ…

「イナもお前を愛したんだよ、ヨンナム」

テジュンの静かな声が心に響く

今のお前なら、きっと解ってくれると思うんだけど…
そう前置きをして、テジュンはラブ君を愛した数日間を語りだした

…可愛い子だとは思っていたし、一人で闘ってる姿を見て助けてやりたくなった
…あんな風になるとは思ってなかった
…でも、あの時僕は彼を愛したし、彼も僕を愛してくれた
…別にちゃんと好きな人がいるのにね…

「ちょっと前のお前なら、こういうの、許せないだろうな」
「…テジュン…」

確かに以前の僕なら…許さない…
けど今の僕は…

イナを求めたんだ。イナを見つめたんだ。イナを愛したんだ…

「イナを…抱いちゃったらよかったのかな…。そしたらスッキリしたのかな」
「僕としては…困るけどな、そうなってたら…」

テジュンはクフッと笑った
僕より随分大人だと思う

「お前とイナはまだ『友達』じゃないんだよ」
「…テジュン…」
「ソクもギョンジンもそうだった。イナに未練いっぱい残してたもんな…。お前が手強いのは『独り身』ってトコだ」
「…」
「都合よく『いい人』が出てきてくれると助かるのになぁ…」
「…。僕だって…欲しいよ、『いい人』がさ…」

ソクさんやギョンジン君みたいに、僕を慕ってくれる人がいたら、どれだけ救われただろう…

「よっしゃ!僕に任せろ」
「え?」
「世話してやる!」
「は?」
「どうせお前と僕の好みは似てるんだ。僕がピピっとくる人を紹介してやるよ」
「…」
「な?」
「…あてはあるのか?」
「今んとこ無い」
「…」
「任せろ!」
「いいよ!」
「なんでだよ、任せろって!」
「自分で探すよ!」

気持ちが先で、その後に行為がくるものだと思っていた
そうじゃない場合もあるらしいと考えを改めた

そうか…
僕はイナに恋してたんだ…
だからこんなに引っ張られるのか…
僕を温めた炎は…『恋』だったのかもしれないな…

「お前も…ラブ君の事…思い続けてたの?」
「…ん?…ん。『終わらせた』けどね、ずっと気にしてるよ、お互いに…」
「…だから…こないだも『寝た』の?」
「あれは…。僕を…。そうだな…。一種の『愛』だと思う…」

少しだけ遠い目をしてテジュンは微笑んだ

「お前とイナもそうだと思う。お互いにずっと気になる存在なんだよ…。だからさ、無理に閉じ込めなくていいよ、ヨンナム」
「…いいの?」
「…仕方ないじゃん?気持は勝手に動くんだから…。でも、気にしすぎないでよね、イナを」
「ん?」
「でないと、お前の新しい出会いがなくなるからね。イヒヒ」

テジュンは穏やかな顔で笑った
そして、イナを雁字搦めにするんじゃなくて、イナが戻ってこれる場所になるんだ。今度は本とにそうなれると思う…と呟いた

「ギョンジンが…そういう奴なんだよ…凄いだろ?そうは見えないけどね…フフフ」

だからラブは…僕をあんな風に導いてくれたんだと思うよ…

テジュンの声が僕の心に凪をくれる
もしかしたら僕は、ずっとこの時を待っていたのかもしれないな…

「僕は…お前も凄い奴だと思ってるよ」

敵わない
昔っから、どうしてもコイツには勝てなかった
もういいや…コイツを意識するの、やめよう…
やめることが沢山あるな、意識することでしょ?タバコでしょ?…そして…イナ…

グラスに残っていた焼酎を飲み干した時、テジュンが急に下を向いて言った

「ありがとう、ヨンナム」
「…なに…が?」

俯いたまま、僕をガバッと抱きしめた


As Time Goes By  足バンさん

ラブ君とギョンビンの兄貴と一緒に店に出た頃には
その日の撮影報告会はすっかり終わってたらしい

「だからドンジュン!おまえやっぱ今日行けばよかったぞぉ、見ればよかったぞぉ」
「ちうシーンをかよ」
「チーフすっごく素敵だったんだからよぉ」

裏を読まないチョンマンのその素直さはこの場合ありがたくて
でも応えたのは横にいたラブ君だった

「それくらいじゃなくちゃ天下のBHCチーフの名が泣くじゃない」
「そりゃそうだけどさぁ」
「チーフも元チーフも仕事に手抜きしないから、ね、ドンジュンさん」

さっき「ドンジュンさんの気持ちがわかんない」って言ってたラブ君のそんな優しさも
当事者ふたりに「お前ら今日すごいシーン撮ったんだってな!」って
突っ込むテプンさんの明るさもありがたかった

こうしてメンバーに支えられてるんだって
やっぱここっていいなぁって感じる


閉店後の掃除が終わった頃
カウンターでグラスを磨いてたソクさんが顎をしゃくるので振り返ると
スヒョンが手招きをする
自分を指差して「?」の顔をすると
あいつはちょっと微笑んで頷いた

事務所のデスクの上にはその日発売のファッション雑誌が置かれてた

「取り敢えずおまえに見せようかと思ってさ」

ウィーバーの広告は雑誌の巻頭に3ページに渡ってた

髪を掻き上げるスヒョン
雨の窓辺に立ってるスヒョン
公園かなんかで微笑んでるスヒョン

そうじゃない
何か違うと思ったら
これはヒョンジュって男を想ってるジンって男だった

「さすがウィーバーのニット、すごくいい色合いだわ、うん」

僕が何とか言えたのはそのひと言くらいで
マジでその東洋的な蒼色は美しかったんだけど
すごく似合うって…
その言葉が素直に出てこなかった

後はウィーバー専属のカメラマンの腕に言及したり
果ては次のページの日本の新車の広告の批評までしちゃって
さすがにあいつも面白くないかなと思ったんだけど

だからスヒョンがさらりと「メシ食いに行かない?」って言った時はちっと驚いた
「時間作れないから行ける時にどう?」って
直ぐに返事ができずに口ごもってると
ミンチョルさんが顔を覗かせて「お先に」と言った

「明日は7時にまず監督のオフィスだよ」と言ったスヒョン
ひと言だけ「わかった」と言うミンチョルさん

その平然としたやりとりが、かえって僕の胸に痛みを放つ
手でも繋いで見つめ合ってくれたらツッコミようもあるのにさ
なんて無茶苦茶なこと考えながら
僕は何となくムカついて思わず叫んでた

「めちゃくちゃ高級なフレンチが食いたい!」


そして僕はBHCからそんなに遠くないこの高級そうな店の高級そうな椅子に腰掛けて
高級そうな皿でメシを食うハメになった
ホントは屋台とかでよかったんだけど

明るさが絞られたモダンな店内
紅いヴェネチアングラスに入ったキャンドルは
スヒョンの顔の片側を濃く照らして
いつも以上に艶のある陰影を僕に見せつける

それまでどうということのない話をしてたあいつは
給仕がスープの皿を下げるのを待って真っ直ぐ僕を見た

「で…撮影の報告はもういい?」
「何よ、それ」
「いろいろ他から耳に入る前に言っておこうと思って」
「山のように耳に入ってるけど」
「やっぱり?」
「キスのあまりの迫力にスタッフの全員が鼻血出して、みんな鼻にティッシュ詰めて
 スタジオ中まるで白いお花が咲いたみたいで、それはそれは美しい光景だったって」

大きく目を開いて暫く考えてたスヒョンがいきなり吹き出して
暫く笑ってるもんで僕もつられて笑った

「みんな筒抜けだね
 ジホ監督とチョンマンが出入りしてる限りは僕から現場報告しなくて済むな」
「さぁそれはどうだかね」
「でもそれがいいのかもしれないな…うん…」

何だかひとり言を言いながら
香ばしいパンのかけらを口に入れるスヒョンを見てて大事な報告を忘れてることに気づいた

「ね、イナさんのパン食った?」
「うん」
「うまかったでしょ?」
「うまかった、今日ちゃんと礼も言ったよ」
「そんだけ?」
「ああ…現場を覗きに行ってもいいかって言ってた」
「ふぅん…で?」
「で…って?」

イナさんがテジュンさんのとこに戻ったみたいだと言うと
やっぱり知らなかったみたいですごく驚いてた
そして、そうか…よかったな…と言って暫く手の中のパンをいじくってる

いつもなら真っ先にひとの問題に頭突っ込むくせに
そんだけ余裕ないんだってのがバレバレ

それでも「あとはスハが気になるな」とため息をついた時は
ちっとムッときて「自分の心配しろっ」と出かかったのを堪えた
堪えるためには目の前のサーモンかなんかを全力で食う必要があったけど

「台本ってみんな憶えちゃったの?」
「大体ね…でも撮る度に細かく変更になるから当てにならない」
「直感型なんだ、その監督」
「アドリブの注文も多い」
「ふぅん…」
「スタッフが少しでも不安を口にすると、『カサブランカ』なんぞ台本未完成で撮影続けて
 バーグマンすら最後まで顛末を知らなかったんだぞ、ナンボかマシだろ!」
「うわ…ジホのおっさんとウマが合うわけだ」
「でもいい人だよ、信頼できる」
「そう…」

僕は何となく今まで聞きたくて聞けずにいたことを口にしてみた

「ね、スヒョンはさ…ヒョンジュが死んじゃうのってどう思うの?」
「ん?」
「まぁお話の意図はわかるけどさ…やっぱ生きててほしいよね?」
「ん…」
「どんなに純粋で無垢で清らかでも、やっぱイケナイでしょ?」
「…」
「どう解釈してスヒョンは受け入れたの?」

スヒョンはずいぶん長いことテーブルの上のグラスを見てた
その日一杯だけ頼んだ白ワインがまだ半分以上残ってて
淡いダウンライトに微かにきらめいてる

「愛情…というか…ひとの想いってものに形は意味ないのかなと思ってる」
「…」
「そこに触れることができるものだけが現実で大事で、なくなったら想いも消えるなんて
 そんなことはありえないでしょ」
「ん…」
「そのまま生きてるヒョンジュの肉体に執着することに意味はないって」
「でも触れたいでしょ、感じたいでしょ」
「そうだな…」
「綺麗ごとじゃないの?」
「ん…そうかもしれないけどね…」
「けど?」

僕は何を確かめようとしてるんだろ

「そういうものに執着しない想いってものがあってもいいのかなと」
「…」
「そんな風にいられたらと…ヒョンジュはその象徴なのかなと思う」
「そんなの頭のいい人間のエゴじゃないの?」
「…うん…」
「だから…」
「だから?」

何だかすごく息苦しい感じがして…
吹っかけたのはこの僕なんだけど
この時ばかりは内ポケットで震えた無粋なギスからの電話に救われたような気がした

一度席を立って戻った時
少し離れた場所で
テーブルのスヒョンを見て立ち止まった

キャンドルの紅い揺らめきに
黒い髪と瞳がより黒く映し出されてる
その目は何かを射抜くように
客席の向こうの何もない空間を見つめて動かない

視線だけで僕を殺せる目があるとしたら
あんな目なのかもしれない


スヒョンが会計を済ませる間
僕は先に店を出てかなり冷える空気を吸った

表から少し入ったその通りは、時折車が行き過ぎるだけで静まりかえってる
橙の外灯が真っ直ぐの道路のところどころを丸く照らしてて
そこだけに時間が流れているような気がする
でも空気をホントに綺麗に照らしてるのは
そのずっと上にある白い月だ

「コートは?おまえ寒くないの?」

後から近づいたスヒョンが
羽織ったコートで僕の身体を包み込むように抱きしめた

「昼間すごく暖かかったから…持って出るの忘れた」

階段の一段上にいるスヒョンの心臓の音が肩の辺りに直に伝わってきて
コートがふわりと暖かくて

「スヒョン」
「ん?」
「今日抱いてよ」

見えないけどどんな顔してるのかわかる
そのまま黙ってると「いいよ」って言いそうで、僕は言葉を継いだ

「嘘だよ、安心して」

コートに包まれたまま身体の向きを変えると
少し上から優しく見つめる目がある
それはさっき垣間見たあの恐いような黒い目とは別のものだ

「撮影が終わるまで無理だってわかってる」

顎の辺りにそっとキスをする

この滑らかな肌にどんな跡も付けるわけいかないもんね
今は僕のものじゃないんだから


「ね、カサブランカってどんな曲だっけ」
「As Time Goes By?」
「うん、そうかな」

スヒョンは小さなハミングでその曲を口ずさんだ

「ああ…その曲か…うん、それだ」

スヒョンは腕を回したままハミングを続ける
僕の耳に低くて甘い振動が伝わる
そのままそうしていればすべてが何でもないことのような気がして
もう全部放り出してここにいてくれるような気さえして

でもそんな勘違いの芽は自分で摘んでおく

「下手クソ」
「失敬なやつ」

僕はスヒョンのコートから抜け出して
ちょっとその辺散歩してから帰ろう、って笑った

As Time Goes By


千の想い 210   ぴかろん

いきなり抱きしめられた僕はバランスを失い床に片手をついた

「ぐえ…気持ち悪…。なにするんだよ。あ?…テジュン!泣いてるのか?なんで泣いてるんだよ!」
「お前はどんな人にも優しいんだ…。いつも人の事を先に考えるんだ。僕には真似できない。お前ほどいい男はいない…」
「…。なに…気持ち悪いよ急に」
「イナを…返してくれて…ありがとう…」

僕はどぎまぎした…
抱きしめられたまま、焦って口走った

それは、イナがお前を強く思ってるって解ったからで
イナをあれ以上苦しませたくなかったし
イナを奪い取るほどの気持ちの強さが僕になかったから…
お前が…
テジュン…
お前の姿が…見えたから…
僕は強くないから…

「違うよ…。お前は…昔っから本物の強さを持ってたんだ…。優しくて…一緒にいると安らげて…。小さい頃、お前がニコニコしてるとそれだけでイヤな事忘れられたもの…」
「お前だって昔っから僕をいつも助けてくれたじゃないか。明るくて皆の人気者でさ…僕はお前が羨ましくて妬ましかった。ずーっとずーっとお前みたいになりたくて憧れてた。そんな事思う自分が情けなく見えてお前に反発してた」
「僕だって、お前みたいに、分け隔てなく人に優しくしたいと思ってた。お前は人のいいところを見つけるのが上手だったじゃない。お前はすぐに人の心をつかめたじゃない?どんな奴ともすぐに仲良くなってさ。そんなとこに僕は憧れたし嫉妬した…」
「テジュン」

僕の目の前にある僕と同じ顔が涙で濡れている
そして僕も同じように涙を流している
それはなんだか気持ちのいい涙だった
心の奥底にあった『石』みたいなものが
実はくるくる巻かれた糸玉で
僕達の涙がその糸口を探り当ててするすると解していくような
そんな気持ちのよさを感じていた

「ずーっと…お前にこんな風に気持ちを話したいと思ってたんだ。ずーっと…」
「僕だってそうだよ。でもお前ったら僕の話、聞いてくれなかったじゃんか」
「お前こそ僕の話、本気にしなかったじゃないか…」
「なぁ…なんで泣いてるんだよお前」
「お前も泣いてるじゃんか、バカヨンナム…」
「僕は…なんか…なんか…嬉しいんだもん…」

テジュンのいいところをテジュンに伝える事が、僕にはどうしてもできずにいた
同じ顔なのに僕に無いものをたくさん持っているコイツの存在を認めたくなかった
でも本とは…自慢に思ってたんだ…
テジュンが誉められると自分の事のように嬉しく感じたし、落ち込んでいると心配でたまらなかった
そんな自分の気持ちに気づくとまた腹が立ってたんだけど…

「僕も嬉しいよ、ヨンナム。こんなに素直にお前と話せたの、初めてじゃないかな…」
「テジュン」
「ヨンナム」

泣き顔の僕達は、思いやりのある眼差しでお互いを見つめた
暫く、まるで『恋人同士』のように見つめあった僕達
その僕達の瞳に、同時に『こっ恥ずかしさ』が走り、そして僕達は「テジュン」「ヨンナム」と叫びながらがっつりとわざとらしくハグをした

「愛してるって、言ってやってよ」
「は?」
「イナに」
「…」
「あ、訂正。『愛してた』って過去形でお願い。でないと心配だから」
「…。『愛してるよ。愛し続けるよ、これからもずっと』だな」
「ちがーう!」
「愛してるよぉ愛し続けるよぉお前をずぅぅっとぉぉ」
「ちがーう!」
「…愛してるよテジュン…」
「…」
「従兄弟としてね」
「ぼっ…。けほっ…。僕もだ、ヨンナム…けほん…」
「お前って…結構純情なのなー」
「よっ…」
「もうちっと飲むか?こないだスヒョク君にもらった紹興酒」
「…。僕も」
「飲むか?」
「愛してるぞ。従兄弟として。けほ…」
「…」
「なんだ。黙り込むな」
「気持ち悪いな…確かに…」

*****

ヨンナムは肩をゆすって笑っていた

イナ…
ヨンナムを抱えて僕に倒れこんできたお前を
今度は僕、ちゃんと受け止められたのかな…
イナがサンドイッチになると可哀想だから、今夜はお前抜きで頑張ってみたぞ

「僕は…イナって奴が好きだな」
「…今更わざわざ言わなくていいよバカテジュン」
「…イナって人間が、好きなんだよ」
「『愛してる』とは別にか?」
「うん」
「僕もだよ。イナに感謝してる」
「お…」
「ん?」
「お前、ちょっと目つきが変わったな」
「そう?」
「『友達』に一歩近づいたってかーんじ」
「…ともだちでもさぁ…」
「うん」
「キスするからな!イナに!」
「…」
「そういう『会則』なんだ、『イナ同好会』の」
「な…なんだその怪しげな『会』は!」
「ひひひ。ひ・み・つっ」

子供みたいに笑うヨンナムを睨み付けた
その日の夜、僕達は居間に並んで眠った
この家に初めて来た日の夢を見た
泥だらけになって、ヨンナムちゃん、テジュンちゃんと呼び合っている
姿かたちは今の僕達で、滑って転んで泣くヨンナム
伯父さんに叱られて泣く僕
大人なのに泣くなんてかっこ悪いなと、僕達は夢の中で泣き笑いしていた
長いことかかって、僕達はやっと向き合えたのかもしれないね…

大丈夫だ
イナの笑顔はもうすぐ本物になる

僕はヨンナムと心が通い合ったこの瞬間を僕に刻み付ける
生きていくために、この瞬間を覚えておく
そんな風に集めた思い出を、時々取り出して見つめるんだ
それは僕の力になる
イナが僕のもとに帰ってきた時そう感じた
忘れないでいよう
大丈夫だよ…ヨンナム
大丈夫だよ…イナ
僕達はひとりじゃないんだ…


セピアの残像 13  れいんさん

灰色の空に雲が流れてた
一羽の鳥が空を飛んでた
しなやかに羽を広げ、天高く優雅に舞って
君はいいね・・空が飛べて

窓辺から庭のさざんかの花が見えた
冬に咲く白い花は凛としていて美しい
花を見て美しいと感じる
まだそんな感情が残っていた
何も感じなくなってしまえばいいのに

断ち切る事のできない記憶は
切ない疼きを伴って
心の奥の深淵へと僕を突き落とし
忘れようともがいても
その記憶が僕を揺さぶる

抱きしめられたあの温もり
髪を撫でてくれたその手の優しさ
彼の余韻が身体の隅々に残ってる

あの時、彼の背中を掴んで離さなかったなら
あの時、彼の首をかき抱いて口づけしたなら

小さくなっていく彼の声
消えていく彼の香り
涙が零れそうになる

トントントン・・
ノックの音が小さく聴こえた
「あなた・・」
扉の向こうにいるのは君
僕は急いで涙を拭う

嗚咽を呑み込んでしまおうと咳払いを一つした
「・・なんだい?ホンヨン」
「入ってもいい?」

心配させないように・・
何事もなかったように・・
パンパンと頬の辺りを平手で打つ

間を置いて遠慮がちに扉が開く
ほんの少し首を傾け、気遣うような眼差しの君

大丈夫・・?
君の目がそう言っていた

ああ、何でもないよ
あの人帰ってしまったわ
ああ、それでいいんだ
追わなくてもよかったの?
いいんだよ。もう終わった事だからね

僕達は目と目でそう会話する
そうして僕はゆっくりと窓の外に視線を移す

夫の傍にそっと寄り添い、夫の視線を目で追った
冬曇の窓の外、陽はもう傾き始めていた

一羽の鳥が空を飛んでた
羽を左右に大きく広げ
力強く羽ばたいていた
あなたはいいわね・・そんなに強くて雄雄しくて

窓辺から庭のさざんかの花が見えた
白い花弁が一枚、風に剥がされ、ゆらゆらと舞い落ちる
そんなところに一人ぼっちで、あなたは寂しくない?
綺麗だと、あなたを愛でる者がいなくても
季節が巡れば、あなたはそうしてまた花を咲かすの?
あのさざんかは私なのかもしれない・・

夫はあの人の事を何も語らない
何も語らなくても、夫の心の奥底が透けて見えた気がした

神様は時に人に試練をお与えになるのだと言う
なぜ私だけが?
そう思ってはいけないのに、私は時々神様を恨みたくなる
でもそんな時程こう言い聞かせる
神様はそれに耐え得る強さを持った人にだけ、そんな試練を与えるのだと

でも神様
今回だけは頑張れないかもしれません
一分でも一秒でも長く、夫の傍に寄り添っていたい
そんな事を思う私に
それに耐え得るだけの強さがあるでしょうか

教えて下さい
私はどうしたらいいのでしょう
夫を救ってあげるには、何をしたらいいのでしょう
その術は私の心の中にあると、そう仰っているのですか?

ゆっくりとゆっくりと灰色の雲が流れてる
夫が見つめる視線の先を
夫の瞳に映るのと同じものを
私もずっと見ていたかった

君が微かに震えてる
静かに嗚咽を洩らしながら
小刻みに肩を揺らして

どうしたの?
何も心配いらないよ

君の手にそっと手を置く
人指し指がぴくりと動く
凍えた指を温めるように
握り締めた手に力を込めた


ねえ、ホンヨン、覚えてる?
器いっぱいの真っ赤に熟したユスラウメの事
ずっと昔
まだ君が、僕の生徒だった頃
家の縁側に、君はそっと置いていったね
あの味は今でもはっきり覚えているよ
甘酸っぱくてひんやりしてて
とても美味しかったんだ

君の瞳を覗き込む
ほんの少しの希望の色と
瞳に翳る苦渋の色

ねえ、ホンヨン
夏の初めにユスラウメの実は成るかな
この夏は一緒にユスラウメの実を獲ろう
今度は僕がたくさんたくさん獲ってあげる
これからもずっとずっとそうしてあげる
だからもうそんな顔しなくていいんだよ

君の伏せた睫が濡れていく

ごめんよ、ホンヨン
君を哀しませてしまったね
こんな僕を許してくれる?
もう二度と君にそんな思いはさせないよ

はらはらと君の頬に涙が伝う
それでも君は、まるで何かと闘ってでもいるように
それを拭う事もしなかった

お願いだから顔を上げてと
重ねた手に力を込める

漸く君は、手のはらで涙を拭い、顔を上げた
その顔はどこか寂しげでどこか儚げで
それでも君は無理に笑顔を作ってみせた


ねえ、あなた、と君は言う
「・・明日は雪かしら」
「そうだね・・そうかもしれないね」
「粉雪かな、ぼたん雪かな」
「君はどっちが好き?」
「私は・・小さな花びらみたいな雪が好き・・」
「そう・・どんな雪が振るだろうね。ここ一面は雪景色になるのかな。美しい眺めだろうね」

ねえ、あなた、と遠慮がちに君は言う
「私ね・・行きたいところがあるの」
「・・どこだい?」
「それは内緒・・あなた一緒に行ってくれる?」
「もちろんいいよ」
「本当に?」
「本当だよ」
「じゃあ明日」
「明日?」
「そう明日。雪が降る前に」
「わかった。じゃあ明日」
約束よ、君は僕の小指に小指を絡ませた

それからね、スケッチブックを君は差し出す
見覚えのないそのスケッチブック
「これ・・テジンさんから預かったの」
一瞬、言葉を失ってしまう
「ごめんなさい・・勝手な事して」
申し訳なさげにうな垂れる君

「テジンさん・・私にコートを貸してくれたの・・風邪をひくといけないからって」
僕の鼓動が激しくなる

寒そうに肩を竦め、ポケットに手を差し込んで、背中を丸めて歩く人影
それが瞼の裏に浮かんで消えない

「今夜も寒くなりそうね・・。何か温かいものでもこしらえるわね」
僕の気持ちを察したように、君はそっと立ち上がり、静かに部屋を出ていった

ぽつりとそこに残された一冊のスケッチブック
震える指先でそれを取る
何が描かれてあるのか想像もつかない

これを見てしまったら
僕はどうなってしまうだろう
見たいけれど
見るのが怖い
でも・・

そろそろとページを捲る
そこには
精密に描かれたマントルピースの絵があった
たった一枚だけのスケッチ画

ああ・・
胸の疼きが蘇る
あの時のあの場面が
まるで古ぼけた8ミリフィルムの映像みたいに
カタカタと音をたてフラッッシュバックした

『この家の事、僕は結構気に入ってるんだ・・スハはどう?』
『僕も好きです』
『そう。よかった』
『でも・・このキッチン、ちょっと寒いって・・知ってました?』
『そうだっけ?じゃあこうすればあったかくなる?』

彼が後ろから抱きしめてくる
触れ合った頬が擽ったくて暖かい
嬉しいのに恥ずかしくなった僕は、なんだか全然素直になれない

『もう!危ないでしょ?お湯沸かしてるのに』
『あはは。ゴメンゴメン。寒いなんてスハが言うから』
『だって本当に寒いんだから。冬は結構辛いんです』
『じゃあ冬の間中、こうしてくっついてるのはどう?』
『だったらテジンさん、冬の朝も毎日こうして暖めてくれる?』
『え?毎朝?』
『そう。朝が一番寒いに決まってるでしょ』
『参ったな・・僕は朝には弱いからなぁ』
『まったくもう、それだから・・』
『そんなむくれた顔するなよ。スハが寒くないようにいい方法を考えておくから』
そして彼はふふふと笑って僕の唇を盗んだんだ

震えが止まらなくて両腕を抱きしめた
あの頃の甘い記憶
忘れたいのに忘れたくない記憶
悲しいけれど、もうあの頃には戻れない
このマントルピースが完成しても
それを見る日はもう来ない

僕がそう決めたんだ
なのにどうして涙が零れる?
どうして涙は枯れないの?

ああ・・僕はまだ
こんなにもあの人を愛してる・・

鍵を挿し込み扉を開けた
誰もいない薄暗い部屋
無意識に壁に這わせた指先が、スイッチプレートを探り当てる
白々しいほどの眩しさに、視界が少しぼやけてしまう

キーフックに鍵を吊るす
いつもの癖で「ただいま」と口走りそうになる
「おかえりなさい」と答えてくれる人はもういないのに

留守番電話の赤いランプが点滅している
ボタンを押すと機械的な音声が件数をアナウンスし、
キュルキュルと不快な音をたて録音テープがリバースした

さすがにコートなしでここまで帰ってくるのは無茶だった
身体がすっかり冷え切ってる

録音メッセージを聞き終わる
特に急ぎの用件はないみたいだ
顔を上げ、壁に掛かった時計を見る
ああ・・もうこんな時間だ
少し遅れると店に電話を入れなきゃな・・
このところ遅刻ばかりだ
もう個展も終わったのだし、いつまでも甘えてはいられない
スハの事もちゃんと皆に話そう・・うん。そうしよう・・

寒さで指先の感覚が鈍くなってる
コーヒーでも飲んで温まろう・・

鉛みたいに重い足を引きずってキッチンに向かう
ホーローのポットを火にかけ、コーヒーの準備を整える
そしてまたリビングに引き返し、ソファの上にドサリと乗っかる

湯が沸くまでの間ソファで待つ事にしよう
チェック柄のひざ掛けを被り膝を抱える
疲れているはずなのに、神経は昂ぶっている
リモコンに手を伸ばし、オーディオをONにする
ふいに懐かしい曲が流れてきた

・・・ when I want sincerity   (真摯さを求めた時)
Tell me where else can I turn (私はどこに求めたらいいのだろう)  
Because you‘re the one that I depend upon・・・(だってそれはあなたから欲しいのだから)

                ※ Billy Joel   Honesty(14曲目)より




僕が好きなその曲の、僕が好きなそのフレーズ

スハが恋しい・・
スハに触れたい・・

その曲を聴くまでは平静でいられたのに・・

寒さも疲労も空腹も、今は何も感じない
僕が感じるのはただ一つ
スハのいない孤独さだけ










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